新年メッセージ キリストを拡大する  船橋誠 日本メノナイトブレザレン教団石橋キリスト教会主任牧師 日本福音同盟青年委員会担当理事

私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。  ピリピ人への手紙1章20〜21節

信仰が問われている時代

明けて2020年を迎えましたが、私たちにとって、いったいどんな一年となるのでしょうか。東京オリンピックやパラリンピック開催は楽しみなことですが、他方、諸問題へ目を転じると、増加する自然災害の脅威、隣国などに対する外交や防衛上の問題、高齢化と人口の減少、格差が広がり続ける社会、弱者へのいじめや虐待など、多くの不安や課題を抱えている現実があります。
キリスト教会についても、教職者と教会員の高齢化による数々の課題があり、教勢は伸び悩んでおり、多様化する社会や激しい時代の変化に、十分な対応ができていないように思います。教会はいったい何のためにあるのか、信じて生きることにはどんな意味があるのか、その意義や価値がこれほど問われている時代は、かつてなかったのかもしれません。
しかしながら、教会の外側から聞こえてきそうな、それらの声に対して答えを準備するよりも、私はもっと大切なことがあるのではないかと考えています。それは、この時代にあって、諸問題に取り囲まれている私たちが、疑いや失望の思いに捕らえられて悲観的になり、信仰の基盤を見失うのではなく、自分自身あるいは教会が、このように私たちは生きていく、そしてこれで良いのだ、という揺るがない確信と、主にある誇りを持って、日々をしっかりと歩むことであると思うのです。もちろんそれは現実の諸課題に目をつぶることではありません。むしろ諸問題を直視しつつ、それと対峙(たいじ)していくことを可能にする生き方です。

生きることはキリスト

使徒パウロが生きていた時代や社会も、現代の私たちとはまた違ったかたちでの課題を抱えていたでしょうし、初代教会も多くの困難に直面しながら戦っていました。
では、パウロはどう生きていたのか、あるいは教会はそのあり方をどう世に示していたのか、ピリピ人への手紙にそのヒントがあります。彼の生き方は、一言で言えば「主にある喜び」でした。21節の「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」と言う力強いことばに目を留めてください。パウロがこれを書いている時、裁判を受けて判決を待っていたと思われます。死の宣告がいつ言い渡されるかもしれない、そういう緊迫した中で書いたことばです。だから、この文章は読者すべてに対しての生きることへの真剣な問いかけでした。あなたにとって生きることは何ですか、その意義や目的をあなたは何に置いていますか、ということです。本音で言えば、生きることは、仕事と考えている人もいるでしょうし、家庭、財産、名誉などいろいろと考えられます。
しかし、この箇所の問いのことばには続きがあります。それで生きることによって「死ぬことは益」と続けて言えますか、ということです。例えば、私にとって生きることは仕事です、と言ったとして、死ぬことは益とは決して言えず、むしろ死ぬことは大損です、と言わざるを得ません。ところが、死ぬことは益と言い得る唯一の答えがあるのです。それが「生きることはキリスト」なのです。

望遠鏡のレンズのように

「生きることはキリスト」という意味は、主を信じて愛し仕えること、この方によって導かれる人生です。パウロが別の手紙で語った「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ人への手紙2章20節)ということばも同様です。1章20節で「生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです」のことばが、その生も死も超越した驚くべき確信をよく表しています。
興味深いのは、この「あがめられる」という表現です。英訳聖書では原語の意味に近いmagnify(マグニファイ)という語で表されています。それは拡大するという意味です。キリストを拡大するとはどういうことでしょうか。空の星を望遠鏡で見ることにたとえて説明できるでしょう。星は地上から裸眼で見ると小さく光って見えているだけですが、実際の星々はとても巨大な物体です。それをよく見ることができるために、望遠鏡が使われます。望遠鏡を通して見れば、もっと大きく、はっきりと見ることができるからです。
私たちキリスト者、そして教会は、この一年も、主にあって喜び生きるということを通して、望遠鏡のレンズのような役割を果たします。キリストが見えていない人々に対して、この方がどんなに大きくて素晴らしいお方であるのかを、我が身によって拡大させて見せていくのです。